株式会社三重富士赤煉瓦倉庫 (旧三井工業部三重製糸所
南北に並ぶこの2棟の赤煉瓦倉庫は、明治29年(1896年)「旧三井財閥の工業部製糸所」として建設され、同年6月最新鋭の製糸機械300台を備えた「三重製糸所」が操業を開始した。その後、三重製糸所は、明治35年には横浜の「原製糸所」に、翌36年三重郡四郷村の「伊藤製絲部」に譲渡されたのをはじめ幾度か経営者や業種が変わったが、大正時代には工女数も370人を超え、三重郡内で抜群の生産高を誇った。昭和18年までは生糸を生産する製糸工場の繭倉として使用されていたが戦争中は一時軍需工場となる。 戦後は紡績工場として再開された後、昭和26年(1951年)東阿倉川の「山庄製陶所」が買収して輸出用陶磁器などの生産を開始する。昭和36年には、「山庄電機株式会社」(富士電機製造(株)三重工場の協力工場)が開設され、昭和42年には「富士電機製造株式会社」に経営権が移り、昭和47年「株式会社三重富士」となる。 南北の倉庫ともほぼ同じ大きさと構造であるが、南倉庫は、窓が少なく閉鎖的で、当初は繭倉(繭曝所)として使用されていたと思われる。北倉庫は、これに比べて側壁に窓が多く、繭の選別などの作業空間として設計されたものと推察される。明治24年の濃尾地震直後の建築物であるため、煉瓦造りの壁面には控え壁を多く配置して耐震性を高め、2階床組みには梁の座屈を防ぐ斜材を組み込むなど構造を強化した設計がなされている。設計者・施工者は不詳であるが、同時期に建てられた同形式の「三井名古屋製糸所」が「竹中工務店」の施工であることから、竹中工務店もしくはこれを凌ぐ業者の施工によるものと思われる。 所在地 :四日市市東坂部町150番地 床組 :2階床は木造床組(小梁の梁間に振止材組込) |
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