薬王院御館山淨蓮寺【 浄土真宗本願寺派 】
浄蓮寺は、はじめ薬王寺と号した。壬申の乱(672年)の折、この地に天武天皇の頓宮がおかれたところから「御館村」と名づけられた由来がある。本堂 本堂の棟札によると、開祖は天武天皇と記されており、朱鳥元年(686年)勅命により南都薬師寺の開祖称蓮上人が刑部造の別荘に薬師如来(後述※)を安置して創始された。寺号は「薬王寺」を賜り、永代宝称延長の祈願所とされたのが起源となっている。 現住職藤澤家の家系図によると、藤原氏の末裔で元は甲斐国武田氏の家臣であった明斎僧都(俗姓藤澤氏)が寛正6年(1465年)春、薬王寺第21代法燈の職を継いだ。その後、応仁元年(1467年)8月には真宗本願寺蓮如上人の教化によって、浄土真宗に改宗した。そのため明斎法師を真宗帰入の開祖とし、当山中興の開基としている。 員弁郡石榑村に照光寺(中本山:浄蓮寺など22か寺が所属)があり、開基澄念(俗姓平重盛四代の孫盛綱の四男長崎四郎照光)が祖先平重盛公(桓武天皇の末孫小松内府)の供養塔を当山境内に建立した。碑表に平重盛の法名「淨蓮大居士」とあり、第23代明賢は本堂再建の際、礎石の下に埋めて万世の供養とした。 明賢は「淨蓮大居士」の由緒により薬王寺を「浄蓮寺」に改めることを再三本山に乞うたが、宿志を果たさず入寂、没後30年を経た寛永18年(1641年)7月漸く良如宗主から木仏、寺号を許された。以来「御館山薬王院浄蓮寺」と号したが、開山の由来から現在では「薬王院御館山浄蓮寺」と号している。 浄蓮寺は累代高僧が続き、幕末期の住職の娘が明治天皇祐宮の御乳人として宮中に召された。 浄蓮寺の本堂は、天正3年(1575年)6月6日織田信長の兵火に遭い建立されたがその後数次(万治2年、元禄15年、文政2年及び安政2年)にわたって再建されている。現在の本堂は、明治15年(1882年)に再建されたものである。その後大正8年(1919年)と昭和58年(1983年)には屋根の大修復を行った。さらに、平成12年(2000年)には内陣の修復も終わり現在に至っている。 ※ 薬師如来は、天武天皇の危急を救った菟田郡(現在の奈良県宇陀郡大宇陀町)の石水盤から彫り上げた勅作の石八躰薬師像の一躰と伝えられており、平成12年7月境内南東の位置に有志によって再建された薬師堂に、前仏像とともに安置されている。 |
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