天 武 (てんむ)天 皇 (てんのう)御 館     (みたち)頓 宮(とんぐう)()
   壬申(じんしん)の乱は、天智天皇亡き後その弟大海人(おおあまの)皇子(おうじ)(天武(てんむ)天皇(てんのう))と天智天皇の子大友(  おおともの)皇子(おうじ)の間に起こった、我が国古代史における最大の内乱である。

  白鳳元年
(672年)6月24日、近江朝廷(大友方)からの危機を察知した大海人皇子は、わずかな舎人と妃(後の持統天皇)二人の皇子(草壁・忍壁)を伴い、密かに吉野を発った。名張・伊賀を経て、翌25日鈴鹿・河曲(かわの)から夜半には三重の郡家に至り、折からの雨に濡れた体を暖めるため、
一軒の家を焼いて暖をとった。その地がここ御館であり、御館の地名の起源であると言われている。

  大海人皇子は、鈴鹿、不破の関を抑え、東国の豪族などの支援を得て戦いに勝利し、飛鳥浄御原で天武天皇として即位する。この戦いでの劇的な勝利により強大な権力を得た天武天皇は、現人神として始めて天皇の称号を得、大化の改新以来の中央集権化と、律令国家の建設を推し進めていく。

  三重の郡家を采女の辺りとする説もある。しかし、当時この地の辺りには、允恭天皇の皇后押坂大中津姫のために作られ、その後中大兄皇子(天智天皇)にまで受け継がれた、御名代の刑部があったとされている。また、貝野遺跡・御池古墳群など7〜8世紀の遺跡の存在、地名の由来や神社・寺院の縁起を始め、河曲(かわの)からの距離三重郡内の位置関係などからしても、この地に三重の郡家があったという説が有力であると考えられる。                                                           
 
  なお、この石碑とともに浄蓮寺山門前にも、天武天皇御館旧跡の碑が残されている。