足 洗 池(あしあらいいけ)


 (やまと)(たけるの)(みこと)(日本武尊)の伝承にまつわる史跡は、北勢地方に多く点在するが、ここ「足洗池」もその伝承地の一つである。地元の言い伝えでは、「倭健命は東征の帰路、大和を目指したが、途中弟五十功彦(いことひこの)(みこと)(江田神社祭神)のもとを訪ねようと当地に至った。伊吹山の神の祟りにより重病に罹っていた命は、この地の清水で足を洗い小康を得た。」と伝えられている。わが国最古の歴史書『古事記』に「吾が足三重の如く曲がりて甚だ疲れり」といわれる「三重」の地は他所とする説もあるが、地元の国学者館通因(たちつういん)(おう)(碑文の撰文者・文政9(1826)年〜明治37(1904)年)は、この足洗池の伝承などから、当地区こそこの三重の地であり、三重郡の中心であるとして、明治22年市町村制施行の折、この地区を三重村と名付けた。

当時の足洗池は、道路拡張工事のため現在の位置に移転したが、元禄時代(1693年作成)の絵図には、「大池」(現御池沼沢付近)と千種街道を挟んで「西溜池」があり、この一帯を足洗野(現在も字名に「足洗」がある。)と記されていることから、このいずれかの池が伝承の池となったものと考えられる。

命は、こののち能褒野(亀山市)に至ってついに亡くなり、白鳥(しろとり)となって大和を目指して飛び去ったと記されている。