西坂部領主(にしさかべじょうしゅ) 旗本丹羽家(はたもとにわけ) (旧領主丹羽正親君顕彰碑(きゅうりょうしゅにわまさちかくんけんしょうひ)) 

この碑の旗本丹羽家は、桓武天皇の御子良峰(よしみね)朝臣(あそん)(やす)()の子孫で、尾張国丹羽郡の良峯惟光の後裔と称し、織田信長の家臣として仕えた丹羽助大夫正明を祖とする。
正明の子左平太正安は、はじめ信長の嫡男信忠(本能寺の変で討ち死)に仕え、後に信雄(信長次男で伊勢北畠に養子となり、後織田に戻る。)の家臣となる。小牧長久手の戦いでは、敵豊臣方の首級を獲る。

 その後、
豊臣家の家臣に転じ、秀次及び秀頼に仕えるが、大阪城落城を迎える。豊臣家滅亡の後、元和元年(1615年)、徳川家康に召し出され、駿府城にて拝謁し、伊勢国三重郡(西坂部村と生桑村の一部)に領地一千石を与えられる。江戸にて二代将軍秀忠の旗本となり、御書院番を勤める。寛永12年(1635年)10月8日没。
 享年71歳、法名道空。 
江戸湯島 (りん)祥院(しょういん) に葬り、麟祥院(東京都文京区湯島4−1−8)を丹羽家の菩提寺とする。

二代領主平右衛門正長は、元和2年はじめて将軍秀忠にまみえ御小姓組に列し、寛永12年父正安の逝去に伴い跡目を継ぐ。同16年江戸城造営の良材伐採を下総佐倉・常陸江戸崎に赴き監督する。同17年下総關宿城引渡し役を務める。同18年豊後国に御目付として赴任同20年保科正之の会津国替えに際し、出羽山形城受け取りの任に就く。慶安元年(1648年)播磨姫路城主松平忠弘国替えにつき姫路に赴任。その後御目付に転じ、慶安4年布衣(ほい)(三千石以上の旗本に許された礼装。六位相当の官位)を着することを許される。寛文元年(1661年)11月13日没。享年64歳、法名 宗省。実子はなく弟の正信を養子とする。            《西坂部町御館の堀田家屋敷内には、正長の実母()(まん)の供養塔が遺っている。》

  その後、丹羽家は正安の四男平右衛門正信が相続し、小左衛門正道・主税正知・小左衛門正慶・佐平太正幸・小左衛門正友・小左衛門正親と受け継がれ、江戸時代を通じて九代約250年間にわたり、西坂部領主としてこの地を治めた。 最後の第九代領主小左衛門正親は、明治維新の後、江戸の家督を甥の佐太郎に譲り、旧領地西坂部にて帰農した。 明治20(1887年)8月20日、正親翁は78歳で病没。 この顕彰碑は、明治22年最後の領主小左衛門正親の遺徳を偲んで地元の有志によって建てられたものである。

《西坂部町の覚照寺には、丹羽家の墓碑と過去帳が遺っている。》