覚皇山(かくおうざん)遍照院(へんじょういん)真言宗(しんごんしゅう) 御室派(みむろは) 中本寺(ちゅうほんじ)

  この丘の上にあった遍照院は、三重郡内で最も歴史ある古刹であった。
遍照院略縁起によると「日本武尊(やまとたけるのみこと)(おとうと)()()()(ひこの)(みこと)(江田神社祭神)の後裔で、刑部造吉澄 なる人が、推古26年(618年)大日如来の尊像を得る。この像を都に運び、聖徳太子の開眼を受けて太子御作の毘沙門天像とともに持ち帰り、一宇を建てて刑部郷の氏寺とした。壬申の乱(672年)の際、御館頓宮に宿営された天武天皇がこの大日如来に武運長久を祈願される。

天平8年(736年)には、東大寺大仏勧進の行基(ぎょうき)菩薩(ぼさつ)が訪れて観音像を刻み、これを末寺の慈恩寺(東坂部町600に現存)に納めた。弘仁3年(812年)弘法大師が大日如来に護摩を修し、独鈷で岩を穿って清水(山之平西光寺内の御加持水井)を得る。これによって覚皇山遍照院大日寺と号し、ますます隆盛を誇る。元久2年(1205年)、この地に居城(坂部城)を構えた萩原小太郎政氏が、寺を再興し菩提寺とする 正平24年(1369年)土岐頼康が足利将軍義満(北朝方)の命により攻め入ったが、北畠顕泰(伊勢国司の息子。南朝方)がこの大日如来に祈願して打ち破る。その後、赤堀藤太郎秀忠がこの地に住んで繁栄していたが、天正3年(1575年)織田信長の家臣滝川一益によって堂舎をことごとく焼き尽くされる。この後秀覚法印という僧の尽力で再興された。」と伝えられている。

また、京都仁和寺門跡親王から菊花御紋章を献ぜられ仁和寺の末寺となる。このほか、遍照院には、由緒ある仏像や寺宝が数多く伝わっていたという。殊に、江戸時代の中ごろ、萓生中村の女が山姥にとりつかれて髪が伸び、これを当山の戎l(かいれん)和尚が、祈祷して治したという言い伝えの「山姥の髪」があった。

昭和の初期ごろまでは、縁日には村の若者たちがご開帳を手伝い、屋台なども出て非常な賑わいであった。檀家を持たない寺のためか、その後住職も次々と替わり、価値ある仏像や寺宝も散逸し、「山姥の髪」も昭和64年の火災に遭って消失、遂には、平成4年(1992)鳥羽市堅神町に移転して廃寺となってしまった。

前記の縁起を事実として鵜呑みにすることはできないとしても、遍照院はおそらく千数百年の歴史ある寺であっただろう。幾多の戦災にも再建を重ねて、この地の真宗からの改宗攻勢や明治の廃仏毀釈の流れにも屈することなく、法燈を守り続けてきたこの古刹を現代に至って廃寺としてしまったことの意味を深く考える必要があるのではないだろうか。