刑部(おさかべ)神社(じんじゃ)

5世紀中ごろ、允恭天皇の皇后忍坂大中姫のために刑部(おさかべ)忍坂部(おしさかのべ))という曲部(かきべ)名代(なしろ))が各地に設けられ、その一つがこの地にあったと思われる。律令のころには、当地を伊勢国三重郡刑部郷(『倭名(わみょう)類聚(るいじゅ)(しょう)』934年に記載)と称していた。現在の坂部の地名もこの刑部が変化したものであろう。神社と地続きにあった遍照院(へんじょういん)の縁起に「五十(いこ)功彦(とひこの)(みこと)(江田神社祭神)の子孫の刑部造が寺を建立した」とあり、刑部神社はこの刑部氏の氏神であったか、もしくは地名の刑部に由来したものと思われる。社名に御厨と冠せられていることから、かつては伊勢神宮に対し神饌料を上納していた神社であったのであろう。江戸期までの神仏習合のころは、遍照院が神主を兼ねていたと思われる。

国の一村一社の方針で明治40年(1907年)、倭姫巡幸にまつわる道社(道宮)と、村内の4箇所にあった山の神が合祀された。さらに明治41年には刑部神社も江田神社に合祀されるが、地元の熱望により昭和5年(1930年)再び元の地に遷座された。以来、氏子が交代で毎朝神饌を供える「日供番」を、一日も欠かさず続けている。海蔵川の河川改修に伴い、境内を整備し平成12年(2000年)社務所を新築、平成13年山の神を移設した。

        刑部神社(村社)  東坂部町字四谷518

              【祭神 大山(おおやま)祇神(つみのかみ)天照皇(あまてらすお)大神(おみかみ)天渟(あまぬ)中原(なかはら)(おき)真人(まひと)天皇(すめらみこと)(天武(てんむ)天皇(てんのう))

                               《明治40年合祀》

         道社(道宮)     東坂部町字東川原 
              【祭神 
天照皇(あまてらすお)大神(おみかみ)

         山の神(4)    東坂部町字上条・字城・字久久見・字久久見 
              【祭神 
大山(おおやま)祇神(つみのかみ)】